例幣使街道(栃木宿~金崎宿)2 [街道風景]
例幣使街道(栃木宿~金崎宿)1の続きです。
旧道を進むと、分かれ道に(←足尾道 日光道→)と刻まれた道標がありました。例幣使街道は右に進みます。
東武線の線路を陸橋で越えるとき、雪化粧をした日光連山の山々が雲の切れ間から見え隠れしていました。山で雪を降らせた冷たい空気が吹きつけてきます。
栃木宿の次の宿場、合戦場宿を通りますが、道沿いには日立製作所の創業者「小平浪平生誕地」の碑と古民家がある以外、宿場らしい雰囲気は残されていませんでした。県道に指定されているためか、交通量が多いです。
北関東自動車道をくぐると現れたのが猿田彦神社です。家中の先からは県道のバイパスが通っているので、例幣使街道を走る車は減りました。後ろには足尾の山々が見えました。
家並みが途切れると、荒涼とした冬景色が広がります。道の周りに風除けとなる建物や木が無いと、風が直接当たって寒いこと。このずっと先にある杉並木が、街道の目印と風雨を除けるために作ったといわれる理由がよく分かりました。
豊年神社。千切れたような雲が次々に流れていきます。
合戦場宿からこんな感じの直線道路を延々と歩いています。蔵のある古い民家なども点在していましたが、単調であまり目を引くものは多くないので、自然に歩くペースが速くなります。単なるウォーキングになってきました。頭上では北風に煽られた電線がピューピュー鳴っています。
気分転換に横道に入ってみると、古い農家の納屋を見かけました。この辺で、自転車に乗った小学生7、8人とすれ違ったときに、全員が順番に「こんにちは!」と元気よく挨拶をしてきたのには驚きました。このあたりの風習なんでしょうか。栃木宿を出てから、すれ違うのは自動車ばかりだったので、ちょっとホッとしました。
たまに出現する神社が街道を歩いていることを実感させてくれます。琴平神社は扉が閉まっていたので中がどうなっているかは分かりませんでした。鳥居と社殿は新しく建てかえられていますが(ずいぶん簡素ですね)、傍らに並んでいた碑はとても古そうでした。金崎宿まであと1キロです。
庭先に大谷石を使った蔵のある家がいくつかありました。道の両側に家が増えてきて、金崎宿が近づいてきます。
午後2時過ぎ、ようやく金崎宿に到着しまた! 栃木宿から約5時間です。門だけが残る本陣跡が冬の西日に照らされていました。
宿場を示す碑などはありませんでしたが、数軒の古い建物が残っていてかつての雰囲気が伺えました。この先、例幣使街道は思川を渡り、楡木(にれぎ)宿へ続きます。
帰りの電車が来るまで時間が余ったので、近くの思川の土手に上がってみると、遠くの筑波山がくっきりと見えました。この土手は「とちぎふれあい自然歩道」のハイキングコースとなっていて、春は桜堤となるそうです。
東武金崎駅から、浅草まで直通の快速電車に乗って帰りました。
旧道を進むと、分かれ道に(←足尾道 日光道→)と刻まれた道標がありました。例幣使街道は右に進みます。
東武線の線路を陸橋で越えるとき、雪化粧をした日光連山の山々が雲の切れ間から見え隠れしていました。山で雪を降らせた冷たい空気が吹きつけてきます。
栃木宿の次の宿場、合戦場宿を通りますが、道沿いには日立製作所の創業者「小平浪平生誕地」の碑と古民家がある以外、宿場らしい雰囲気は残されていませんでした。県道に指定されているためか、交通量が多いです。
北関東自動車道をくぐると現れたのが猿田彦神社です。家中の先からは県道のバイパスが通っているので、例幣使街道を走る車は減りました。後ろには足尾の山々が見えました。
家並みが途切れると、荒涼とした冬景色が広がります。道の周りに風除けとなる建物や木が無いと、風が直接当たって寒いこと。このずっと先にある杉並木が、街道の目印と風雨を除けるために作ったといわれる理由がよく分かりました。
豊年神社。千切れたような雲が次々に流れていきます。
合戦場宿からこんな感じの直線道路を延々と歩いています。蔵のある古い民家なども点在していましたが、単調であまり目を引くものは多くないので、自然に歩くペースが速くなります。単なるウォーキングになってきました。頭上では北風に煽られた電線がピューピュー鳴っています。
気分転換に横道に入ってみると、古い農家の納屋を見かけました。この辺で、自転車に乗った小学生7、8人とすれ違ったときに、全員が順番に「こんにちは!」と元気よく挨拶をしてきたのには驚きました。このあたりの風習なんでしょうか。栃木宿を出てから、すれ違うのは自動車ばかりだったので、ちょっとホッとしました。
たまに出現する神社が街道を歩いていることを実感させてくれます。琴平神社は扉が閉まっていたので中がどうなっているかは分かりませんでした。鳥居と社殿は新しく建てかえられていますが(ずいぶん簡素ですね)、傍らに並んでいた碑はとても古そうでした。金崎宿まであと1キロです。
庭先に大谷石を使った蔵のある家がいくつかありました。道の両側に家が増えてきて、金崎宿が近づいてきます。
午後2時過ぎ、ようやく金崎宿に到着しまた! 栃木宿から約5時間です。門だけが残る本陣跡が冬の西日に照らされていました。
宿場を示す碑などはありませんでしたが、数軒の古い建物が残っていてかつての雰囲気が伺えました。この先、例幣使街道は思川を渡り、楡木(にれぎ)宿へ続きます。
帰りの電車が来るまで時間が余ったので、近くの思川の土手に上がってみると、遠くの筑波山がくっきりと見えました。この土手は「とちぎふれあい自然歩道」のハイキングコースとなっていて、春は桜堤となるそうです。
東武金崎駅から、浅草まで直通の快速電車に乗って帰りました。
潮来~鹿島神宮の旧参道 [街道風景]
潮来は水戸街道の府中宿(石岡市)から鹿島神宮へ続く、参拝道の宿場町でした。国道51号線が開通して取り残された旧道には、所々に歴史の面影を見ることができます。
2011年6月12日。JR鹿島線の潮来駅で降りて、あやめ園へ行きました。今年は開花が遅れているらしく、まだ六分咲きだったせいか観光客は少なめでした。
あやめ園を出て旧街道へ。西の枡形には老舗の漬物屋さんがありました。とても分かりやすい「のれん」ですね。
長勝寺は文治元年(1185年)に源頼朝が開祖した古刹で、境内には松雄芭蕉が鹿島紀行で詠んだ句碑もあり、風情のあるお寺です。
赤く色づく頃に見たかった楓。奥にある門をくぐると見事な苔庭の庭園がありました。
長勝寺を出て旧道に戻り、鹿嶋方面へ歩いて行きます。1キロほど歩いていくと立派な長屋門がありました。出窓が付いていて武家屋敷の門みたいですね。
その先には白壁の路地がありました。創業文化元年(1804年)の酒蔵、愛友です。
酒蔵の隣の神社は、大震災で灯籠が崩れ落ちていました。なぜか倒壊したのは新しいものばかりで、古い二基の灯籠は無傷だったようです。
看板や石碑がゴチャゴチャと並んでいますが、文化財の二十三夜尊堂です。文化年間(1810年頃)に、私塾の聖堂として建てられたもので、後に水戸藩の郷校となりました。学校だからかどうか分かりませんが、なぜか鳥居に蛍光灯、左の古ぼけた時計は1分の狂いもなく時を刻んでいました。
道の脇に小さな丘がありました。一里塚かと思ったら古墳でした。
あやめ園からのんびり歩いて2時間が経ちました。旧街道は一旦国道51号と合流し、500mほど歩くと再び生垣が続く旧道が復活しました。このまま歩いて鹿島神宮まで行こうかとも考えましたが、延方駅の先はまた交通量の多い国道を歩くことになるため、延方駅から1駅だけ電車に乗って鹿島神宮駅まで行きました。
鹿島神宮駅から急な坂を上がり、参道に出ました。左の鳥居は龍神社です。
鹿島神宮に着きました。
楼門は寛永19年(1642年)、初代水戸藩主徳川頼房により建立されました。現在銅板葺きとなっている屋根は、元は檜皮葺きだったそうです。
楼門に続く回廊と札所です。
拝殿は徳川幕府二代将軍の秀忠が元和5年(1620年)に奉納したものです。大きな楼門に比べるとこじんまりとしていますが、とても厳かな雰囲気があります。
本殿の先は、巨木が連なる神宮の森に続きます。
森の中にある奥宮。この建物は慶長10年(1605年)に、徳川家康が本殿として奉納されたもので、現在の本殿が建立されたときにこの位置に移転し、奥宮となりました。この建物が本殿として使われたのはわずか15年ということになります。
この日の歩数計の数値です。
歩数:20480歩
距離:14.9km
消費カロリー:590kcal
2011年6月12日。JR鹿島線の潮来駅で降りて、あやめ園へ行きました。今年は開花が遅れているらしく、まだ六分咲きだったせいか観光客は少なめでした。
あやめ園を出て旧街道へ。西の枡形には老舗の漬物屋さんがありました。とても分かりやすい「のれん」ですね。
長勝寺は文治元年(1185年)に源頼朝が開祖した古刹で、境内には松雄芭蕉が鹿島紀行で詠んだ句碑もあり、風情のあるお寺です。
赤く色づく頃に見たかった楓。奥にある門をくぐると見事な苔庭の庭園がありました。
長勝寺を出て旧道に戻り、鹿嶋方面へ歩いて行きます。1キロほど歩いていくと立派な長屋門がありました。出窓が付いていて武家屋敷の門みたいですね。
その先には白壁の路地がありました。創業文化元年(1804年)の酒蔵、愛友です。
酒蔵の隣の神社は、大震災で灯籠が崩れ落ちていました。なぜか倒壊したのは新しいものばかりで、古い二基の灯籠は無傷だったようです。
看板や石碑がゴチャゴチャと並んでいますが、文化財の二十三夜尊堂です。文化年間(1810年頃)に、私塾の聖堂として建てられたもので、後に水戸藩の郷校となりました。学校だからかどうか分かりませんが、なぜか鳥居に蛍光灯、左の古ぼけた時計は1分の狂いもなく時を刻んでいました。
道の脇に小さな丘がありました。一里塚かと思ったら古墳でした。
あやめ園からのんびり歩いて2時間が経ちました。旧街道は一旦国道51号と合流し、500mほど歩くと再び生垣が続く旧道が復活しました。このまま歩いて鹿島神宮まで行こうかとも考えましたが、延方駅の先はまた交通量の多い国道を歩くことになるため、延方駅から1駅だけ電車に乗って鹿島神宮駅まで行きました。
鹿島神宮駅から急な坂を上がり、参道に出ました。左の鳥居は龍神社です。
鹿島神宮に着きました。
楼門は寛永19年(1642年)、初代水戸藩主徳川頼房により建立されました。現在銅板葺きとなっている屋根は、元は檜皮葺きだったそうです。
楼門に続く回廊と札所です。
拝殿は徳川幕府二代将軍の秀忠が元和5年(1620年)に奉納したものです。大きな楼門に比べるとこじんまりとしていますが、とても厳かな雰囲気があります。
本殿の先は、巨木が連なる神宮の森に続きます。
森の中にある奥宮。この建物は慶長10年(1605年)に、徳川家康が本殿として奉納されたもので、現在の本殿が建立されたときにこの位置に移転し、奥宮となりました。この建物が本殿として使われたのはわずか15年ということになります。
この日の歩数計の数値です。
歩数:20480歩
距離:14.9km
消費カロリー:590kcal
箱根旧街道を歩く(前編) [街道風景]
旧東海道箱根峠越えの風景です。須雲川から三島宿まで22キロの歩き旅(2011年11月)
午前8時30分、箱根湯本駅。最近リニューアルされたのか駅舎がきれいになっていました。
湯本から上畑宿行のバスに乗り、発電所前で下車。早朝まで降っていた雨が路面を濡らしていました。バス停の近くに割石坂の入口があります。
割石坂。江戸時代の石畳が残る旧東海道です。
一旦車道に出て再び石畳の道に入ります。人の気配はなく、鬱蒼とした木々の間を歩いて行きます。
大澤坂。長い年月の間に踏まれ続けた石畳の角は取れ、ツルツル滑り歩きづらいのですが、石畳が無ければひどいぬかるみです。
畑宿で車道に合流しました。ここは正式な宿場ではなく、小田原宿と箱根宿の距離が遠かったために置かれた間の宿で、茶屋本陣がありました。わずかながら旧街道の雰囲気が残っていました。
畑宿一里塚。旧街道は右奥の木々の間に続いています。
箱根の七曲りと呼ばれる九十九折の車道を登り、樫木坂の先の遊歩道を歩くと笈の平です。東屋の横にあるモミジが色付いていました。
箱根旧街道資料館(休憩所)、隣には甘酒茶屋があります。
白水坂。箱根の坂にはそれぞれ名前が付いています。
天ヶ石坂を登り、外輪山の頂上を過ぎると芦ノ湖へと下りる権現坂へと続きます。
権現坂を下り、杉並木の舗装道路を歩いていくと箱根神社の大鳥居の前に出ました。
芦ノ湖は湖面標高723メートルのカルデラ湖です。一瞬、富士山が顔を出しましたが、すぐに雲間に消えてしまいました。
葭原久保一里塚。日本橋から数えて24番目の一里塚です。
葭原久保一里塚から先は600メートルほど旧街道の杉並木が続いています。付近に観光名所が多いため、歩く人が多くなりました。
箱根関所に着きました。関東防衛の要所として江戸幕府が設置した箱根関所は明治維新後に取り壊され、およそ140年後の平成19年に復元されました。
しばらく箱根宿のあった芦ノ湖沿いの国道を歩き、ふたたび外輪山を越える坂を登ります。
薄暗い林の底に鈍く光る石畳。
赤石坂。
風越坂。さらに上の狭石坂を登りきれば箱根峠、相模と駿河の国境です。
後編に続きます。
午前8時30分、箱根湯本駅。最近リニューアルされたのか駅舎がきれいになっていました。
湯本から上畑宿行のバスに乗り、発電所前で下車。早朝まで降っていた雨が路面を濡らしていました。バス停の近くに割石坂の入口があります。
割石坂。江戸時代の石畳が残る旧東海道です。
一旦車道に出て再び石畳の道に入ります。人の気配はなく、鬱蒼とした木々の間を歩いて行きます。
大澤坂。長い年月の間に踏まれ続けた石畳の角は取れ、ツルツル滑り歩きづらいのですが、石畳が無ければひどいぬかるみです。
畑宿で車道に合流しました。ここは正式な宿場ではなく、小田原宿と箱根宿の距離が遠かったために置かれた間の宿で、茶屋本陣がありました。わずかながら旧街道の雰囲気が残っていました。
畑宿一里塚。旧街道は右奥の木々の間に続いています。
箱根の七曲りと呼ばれる九十九折の車道を登り、樫木坂の先の遊歩道を歩くと笈の平です。東屋の横にあるモミジが色付いていました。
箱根旧街道資料館(休憩所)、隣には甘酒茶屋があります。
白水坂。箱根の坂にはそれぞれ名前が付いています。
天ヶ石坂を登り、外輪山の頂上を過ぎると芦ノ湖へと下りる権現坂へと続きます。
権現坂を下り、杉並木の舗装道路を歩いていくと箱根神社の大鳥居の前に出ました。
芦ノ湖は湖面標高723メートルのカルデラ湖です。一瞬、富士山が顔を出しましたが、すぐに雲間に消えてしまいました。
葭原久保一里塚。日本橋から数えて24番目の一里塚です。
葭原久保一里塚から先は600メートルほど旧街道の杉並木が続いています。付近に観光名所が多いため、歩く人が多くなりました。
箱根関所に着きました。関東防衛の要所として江戸幕府が設置した箱根関所は明治維新後に取り壊され、およそ140年後の平成19年に復元されました。
しばらく箱根宿のあった芦ノ湖沿いの国道を歩き、ふたたび外輪山を越える坂を登ります。
薄暗い林の底に鈍く光る石畳。
赤石坂。
風越坂。さらに上の狭石坂を登りきれば箱根峠、相模と駿河の国境です。
後編に続きます。